高岡における米場と綿場について     天野修一

 

 加賀藩政時代、越中における最大の産物は、何といっても米であろう。千保川の豊富な水量は、砺波

平野や射水平野を潤し豊な穀倉地帯を形成している。千保川はまた、稲作の恵の水だけではなく、縦横

無尽に張り巡らされた水路を利用して、生産された米や肥料などの運搬にも誠に都合がよかった。

「加賀120万石」といえども、半分は越中の米がこれを支えていたので、正確には「加賀藩120万

石」と言うべきであろうと誰かが言っていたことを思い出す。

 

 明暦3年(1657)に、魚問屋と塩問屋が創設され、また高岡城跡には藩主に納められる御詰米と御詰

塩のための御蔵が置かれ、さらに寛文年間(16611672)には、この御蔵が吉久、立野、戸出などにも

置かれた。米の多くは年貢米として集められたもので、高岡には給人米(家臣らの給料となる米)を納

める多くの蔵宿や批屋(へぎや)があったことが記録されている。

 

 高岡における米場(取引所)は寛文(16611672)時代に創設されたといわれているが享保2年(1717

天野屋が開設したことが記録されている。由緒町人筆頭として、町年寄を代々勤める家系である天野屋

は、丁度その頃、勝手不如意になって御用も勤めかねる破目に陥ったところ、功労のある家柄を潰すの

は惜しいということから奉行に願い出て認められ、初代米場主附を命ぜられたものである。(参考文献

高岡市史より)

 この取り計らいは、天野屋にとっても高岡の町の発展にとっても契機となった。しかしこのことは、

金沢の米商人にとっては都合が悪く、再三の申し入れにより明和7年(1770)米取引を金沢だけに限定す

る決定を下したのであった。しかし、現実は金沢米場建米はことごとく越中米であり、払い米の大部分

は越中の米で占め、他国への輸出も越中の諸港から行っていたので、高岡の米商人たちは、この命令を

無視し、引き続き取引を行っていたのである。

それはそうであろう一つの国に二つの相場が存在することになり、価格が違うことになるのであるから。

安ければそれだけ損をするもの、また喜ぶものがいたということである。このことは、高岡の町は、利

常公によって変革したというよりは、高岡の町人自らが努力して築いた町である証拠なのである。

 

一方、高岡における綿場市場の創設は、寛文12年(1672)とある。明和元年(1764)綿場の利益を高岡

町宿益となし売買口銭を以って町費の補充に充て、綿場主任は町年寄の内より出すこととする。文化9

年9月、加越能三州内へ他国より輸入する綿の徴税事務(御領国中入綿員数調理方並に御役銀取立方主

附)を高岡町天野屋伝兵衛に任される。(高岡史料より)とある。これより高岡綿市場も活発となり、

高岡の綿商人たちの活躍が始まるのである。

 

 文政4年(1821)高岡は大火にあい、37カ町、約2300軒を焼失する壊滅的な危機にあった。

そのことが契機にもなっているのか、大火による実質運営が困難になったのかは不明ではあるが、文政

6年(1823)になって金沢が領内唯一の米場になり、翌7年(1824)には高岡における米場は完全に停止

させられた。

高岡における米場が認められなくなったことで、高岡の財政基盤も大きな影響を受けたであろう。そ

の見返りとしてなのか、高岡の配慮として文政7年(1824)12月に至り、加越能三州における綿の専

売権を高岡に特許されたのである。このことは、高岡史料にも残っており、高岡大火災後の経営として

時の町奉行大橋作之進及び半田左門が藩に請願して尽力せし結果とある。(高岡史料より)さらに、右の

ごとく綿の専売権を特許せられしにつき、高岡に於いて従来の方法を改正し、翌文政8年(1825)春より

締綿場と玉綿場を分設し、諸般の規程を立て、管理者をも選任し運営され、(高岡史料より)その後、高

岡における綿取引は、益々栄えることとなるのである。

 

天野屋の屋敷(本陣)は、この文政4年(1821)時の大火に類焼して、改築に当たり藩主より松の木50本、及び

庭の植木30本を下賜されている。(藩主から直接下賜(かし)されることは異例中の異例のことであるらしい)

 

高岡の綿商人の盛況ぶりは、高の宮の愛称で慕われている関野神社の大石灯籠の中に、福清はじめと

する綿商人らが多数の名前が刻まれ、奉納されていることからも伺い知ることが出来る。同じものが

大阪、住吉大社にも奉納されているそうだ。(千保川の記憶より)

 

 その後時代は、江戸から明治に移り廃藩置県が行われると、高岡の所属がめまぐるしく変わるなどし

た。高岡はそれまで蓄積したノウハウを生かし、次第に経済中心都市として確立していったのである。

 「悲願の米商会所開設」は、高岡にとっては特別の意味があるのである。明治5年(1872)に入り再び

新川県(現富山県)が石川県より分かれるとき、県庁所在地を取るか、米商会所を取るかで議論された

ことがあり、高岡は迷わず経済の中心になる米商会所を望んだという経緯もあるくらいだ。

 

 明治9年(1876)には、富山は石川県に統合された時代があり、明治16年(1883)に再び富山県が独立

したことで、高岡には、明治18年(1885)藩政時代以来の念願の高岡米商会所が開設したのである。こ

の場所は今の高岡郵便局本局の向かい角で、かつては御本陣(天野屋の屋敷)があったところである。

明治18年に開業した高岡米会所は、全国16箇所ある米穀取引所の内、東京、堂島、赤間関、兵庫、

金沢、名古屋についで第7位であった。10年後の明治28年(1895)には、114の取引所を数える

に至ったが、高岡米穀取引所の売買高は184万石を数え全国8位であった。さらに日露戦争の躍進に

ついで、欧州大戦は、期米の大爆発を誘い、大正6年(1917)には919万石という驚異的な記録を作

った。

しかし、その後の昭和初期の大恐慌を境に急速に衰え、統制経済に移行すると取引は激減、加えて昭

和8年米穀統制法、11年の米穀自治管理法を交付して、米価の統制と政府買い入れを増強した為、全

国の米穀取引所は、閉鎖を余儀なくされた。その後この地(天野屋の屋敷跡)に移転されたもので、天

野屋の屋敷は明治5年に焼失していたことが判った。明治最初の市長とも言うべき、第17区長の服部

嘉十郎(屋号が天野屋)の生家でもあったところで、嘉十郎が一番町角に移転後のことであるらしい。

(ここらの経緯ももっと知りたいところだが不明である。)初代頭取に伏木の豪商「藤井能三」が就任、

その形が六角形だったこともあり「六角堂」と呼ばれた。また取扱量も次第に増える中、毎日の米の相

場を記載したことで、地元新聞社の「高岡新報」も有名になった。

(現在この地に米商会所跡地であった標識も立っていない)

 

 高岡は、西部でも圧倒的な、経済都市であったことから県庁所在地以外の都市の中でも最も早い明治

22年(1889)市制が認められることとなるが、明治29年(1896)の未曾有の千保川の洪水や明治33年

(1900)には、高岡市の3300軒を焼け尽くすという大火にも見舞われ、幾たびも壊滅的な危機を迎え

ている。更に昭和の時代に入り、戦時統制経済が進行する中で、高岡の全国的な米場の役割は終えたの

であった。

 

 先日、全国版のニュースの中で、高岡の米作農業が後継者不足から、一部は共同経営農業と移っては

いるのだが、儲からない農業に見切りをつけて、宅地や工業用地に転換されているという報道がなされ

ていた。豊な越中の米どころをどうするのか、TPP参加の是非のとは別に考える必要がある。