高岡よ頑張れ、 あなたには底力があるのだから!
由緒町人筆頭
天野屋伝兵衛(服部家)
高岡城と新たな城下町の建設
慶長14年(1609)3月14日、その日富山の町より出火した火災は、瞬く間に広がり富山城も焼き尽
くした。一旦は魚津城に退避した前田利長は、かねてより目をつけていた関野の地(高岡)に新たな城と
城下町をつくるべく許可を願いうるべき特使を親書とともに江戸にいる徳川家康に向け派遣した。
早々許可をうけた利長は高岡城建設に着手するのであるが、その時はまだ大阪には豊臣家が健在
であり、かねてより豊臣家と親交の深かった前田家にとって大変つらい立場でもあり、家康の存在は侮れ
ない存在であった。父利家は豊臣家の五大老の一人であり、生きていた時は、徳川家康の野心を抑えら
れる唯一の存在であったのである。しかし太閤秀吉が亡くなるとその後僅か2年で利家が亡くなった。
(余談だが、利家のが死因は寄生虫によるものだとか。)
さて、前田利家が亡くなると家康の野心は表面化していった。
利家の遺言で、3年間は大阪を離れてはならないと豊臣秀頼の後見人を託されていたのであるが、家康
の諭されか脅しかわからないが、加賀金沢へ戻っていった(不可解であるが)。
関が原の戦いでは、利長は西軍には付かなかった。家康に逆らわずに前田家安泰の道を選んだのであ
った。自らが生きていれば必ず矛先を向けられると思い、母「まつ」を江戸へ人質に差出し、家督を異母弟
の利常に譲り、家康の孫娘の「珠姫」を利常の輿入れとして受け入れ、若くして引退の道を選んだのであっ
た。
そういう観点から高岡城の建築は、単なる隠居城ではないといえる。金沢城だけでは防衛上弱いと考え
ていた利長は、この関野(高岡)の地に金沢城以上の堅城と城下町を造り、万が一の防衛の拠点を築くこ
とが目的であった。高岡城の縄張りは、当時前田家に身を寄せていたキリシタン大名の高山右近とされている。
まず千保川と小矢部川の合流地点に木町を設け、多くの材木商らを富山と能登より移り住まわせ、資
材を受入れ加工する基地とした。その理由は当時小矢部川の水量がまだ多く、この地まで大型の外洋船
がそのまま入ってこれたからだ。天守閣はまだできていなかったと思われる。高岡城の城郭と一部の施設が
完成をみるまで僅か半年であった。普通農繁期に向って城をつくることはあまりないのであるが、利長はわず
か半年でこの高岡城に入城したのである。大方の城の設備が整い、本当に何もない関野の地にそれこそあ
っというまに城下町を築いたのであった。 高岡の地は、加賀、能登、富山などからも中心に位置し、米どこ
ろの射水平野、砺波平野を抱えた要衛の地であることはいうまでもなく、増山城、七尾城、富山城などと
連携を取りいざというときには、千保川を下って逃げればよい。町の中心に千保川が流れていたことが非常
に大きい役割をもっていた。これを天然の外堀と考え、水運を使った町の利便性を最大の立地条件と考え
た。
ここらの話は、このたび竹書房から出版された「千保川の記憶」にも書かれてあるので、私も出稿したので、
参考にしていただけると有難い。
さて城下町は、まず城を中心に外に近いほうに武家屋敷を構え、そして町人はその外側に住まわせ、中
でも特に気を使ったのが寺の配置である、まず日蓮宗の寺を土器町(大坪町はずれ)に集め、臨済宗、浄
土宗の寺を南に、また一般農民の多くが信仰している浄土真宗の寺を町の中心に集め、日頃から一向一
揆に対する監視を行うと共に、いざという時の砦としての役割も考えた。また防火と冬の排雪のために、いく
つもの用水を町の中心を通し、町全体を一つの防衛網のように考えたと取られる。ある人は、「聚楽第」に
ならい、家康が江戸を開いたように、この地に北陸最大の都を築いたという方があるが、時代の転換期の中
で、前田家の存続を優先したと考えると高岡は、家康との最後の決戦の場となっても対応できうる機能を
備えたのではないだろうか。そしてこれまでは伏木より小矢部川左岸を通っていた街道を改め、千保川の中
心、中島と
慶長14年(1609)9月14日、前田利長が約2000名の家臣を引連れて高岡に入城したとき、高岡
町の所帯は650軒余り、人口にしてわずか約2500人余り。いわゆるこれらの人たちが高岡のルーツとな
るのあるが、入城間もない利長には予期せぬ病魔が忍び寄っていた。悪性の瘍が進行し僅か5年で、この
高岡城で亡くなった。高岡城も天守閣もない、未完成の状態であった。
高岡の町の特徴として特筆されることに、加賀藩は町の運営を奉行所に監視させながら、その運営を
町の人々に積極的に任せたことではないか。しかしながらこのことは余り語られない。だから奉行が直接高
岡を取り仕切っていたと思われるのではないだろうか。
町の運営を代表する役人として、町宿老役を三名選任した。そのひとりが「天野屋三郎右衛門」であ
る。他に「横町屋弥右衛門」、「越前屋甚右衛門」が選任されている。
天野屋の初代、服部連及甚吉は天正年中、前田利家(高徳院)越前府中時代に御用商人として召
しだされた一人であった。その後利長に従い越中守山を経て富山に移った時、願い出て町人となり「天野
屋三郎右衛門」と名乗った。
前田利長(瑞龍院)が慶長14年(1609年)高岡開町に従い、御馬出町に1町(3000坪)(約109メ
ートル四方)という広大な宅地を賜り、翌年慶長15年4月「町宿老」を命じられた。
当初の役割は、行政機構もまだ確立されているわけでもない、いい加減なものであり、高岡町における訴
訟事務を管掌することなどが主な任務であったらしい。それを宿老役と称し、元和6年(1620年)10月2
日宿老役を10名に増やし、町年寄と改称した。(高岡史料参考)
天野屋は高岡町人の最高位の由緒町人筆頭(他に横町屋弥三右衛門、越前屋甚右衛門)として、
明治に至る260年にわたり家督を相続、その間も断続ながらも町年寄を代々務めるなど、ただひたすら
高岡の発展と前田家のために尽力してきた家柄なのである。
この間豊臣の家臣が、利長を訪ね豊臣のため助けを求めたが、もうすでに病に侵されていた利長にとっ
てはどうすることも出来なかった。むしろ前田家安泰のための道を選択するしかなかったのである。
かつては、隠居城の名目で、徳川家康がもし攻めてきた時の備えを充分意識して、この地高岡に城下町
を築いたが、利長亡き後、徳川家康は、利常に徳川へ帰属を確かめ豊臣秀頼を撃つべく大阪城冬の陣
への出撃を命じたのである。利常にとっては、これが初陣であった為、真田幸村らの軍勢の前に成果を上げ
ることができずに家康からひどく叱られた。逆に大阪城夏の陣には多くの戦勝を掲げ、結果として自分の相
婿である「豊臣秀頼」を倒したことで、前田利家が大公秀吉殿下が亡くなるときに豊臣秀頼のことを頼むと
遺言されたこととは裏腹な結果となったが、前田家安泰に繋がったのである。
徳川幕府を開いた家康は、一国一城令を出し、このことで高岡城も廃城となった。
廃城となった高岡の町は、家臣団がすべて金沢へ引き揚げた為、次第に寂れ、防衛の拠点であった高岡
の存在意義をも無くなった。しかし米どころ越中の中心地であった為、利常は他所転出禁止令を出し、経
済都市高岡の再生に向け、政策面で数々の特権を与え、見事復活を成すのである。
10名になった理由は、この一国一城令により、寂れていった高岡の再生と、秩序の維持であった思われ
る。町年寄は任期の定めもなく、俸給もない名誉職であったため、代々由緒ある家柄より選出される決ま
りになっていたので、その家に生まれた長男は、小さい頃より跡を継ぐべき教育、見習いをさせられながら仕
事を覚ていった。
正徳元年(1711年)、4代伝兵衛の時、天野屋はそれまでの加賀藩直営であった「御旅屋(おたや)」
が古くなったので、民営の藩主旅館「御本陣」(藩主の旅館)に指定され、13代嘉十郎の時まで代々世
襲し、天保4年(1833年)には「服部」姓が苗字御免となっている。
江戸時代を通して高岡の有力な町人であった天野屋(服部家)本陣跡の見取図が博物館に残ってい
る。
土間・白洲・奥・貸他家・他白洲・他人家がそれぞれ色分けされていて、その大きさが伺える。
この本陣跡は、明治5年に服部嘉十郎が一番町に移転後、火災により焼失た。
その跡地には米穀取引商会所が開設され、現在はNTTの別建物が建っている。その角に御本陣跡のい
われが掲げられているが、これは天野屋伝兵衛家跡(御本陣)と書くべきではないか。
そしてこの角にあったのではなく高峰公園(高峰譲吉生誕の地)向い側は、すべて天野屋の屋敷跡だった。
● 高岡開町のねらいと前田利長公の思い
高岡惣社白山神社の禰宜、高尾哲史さんが書かれた論文で、「高岡御車山まつり」の起源や伝承の
中で、前田利長公の高岡開町のねらいが豊臣秀吉政権の恒久的な顕彰と秀吉の養子で、秀次に対
しての慰霊であったとするのも分かる。
高岡の御車山が他のとは違うのは、京都聚楽第を建造した太閤豊臣秀吉が天皇をお迎えする時に
使った台車で、父利家に下賜されたものが利長公により高岡の町民に与えたものであり、上部の飾りよ
りこの台車部分に大きな意味があるのである。
また、利常公による瑞龍寺建立も、前田利長公の単なる慰霊ではなく、他の侵略者がこの地に踏み
とどまることもなく、利長公の想いが永遠にこの高岡の地の住民に忘れられることなく心に刻まれるよう
建立されたのではないだろうか。
利長公は、表では徳川家康に逆らわず、父の遺命をも守れず、結果豊臣家を滅ぼしてしまった。
その悔しさを何時か巻き返してくれることを、高岡の民に託そうとしたのではないだろうか。
初代は「天野屋三郎左衛門」ではなく「天野屋三郎右衛門」が正しい?
加賀藩最後の総町年寄が「天野屋三郎左衛門」を引き継いで名乗っていたこともあって、多くの郷土史
家は、最初に名乗った名前が「天野屋三郎左衛門」と思っている。これには少し複雑な思いがあるが、事
実はこうだ。
最初服部連及甚吉が名乗ったのが「天野屋三郎右衛門」であった。
次の長男が家督を相続して名前を受け継ぎ、元和6年(1620年)10月2日高岡町民の他所転出を禁
止した際、町年寄を10人体制にしたのであるが、その後「朱屋新兵衛」という町年寄の代わりに息子の二
代目が補充の対象となり、父親健在の中で家督を受け継いでいたわけではなかったので、「天野屋三郎左
衛門」を名乗り町年寄の中に列記したと推測する。 (大変紛らわしいのであるがそうであることがわかってき
た。)
このことは他を調べていくと、やはり「三郎右衛門」と名乗った事実が確認できる。
鶏冠井良徳の「崑山集」(慶安4年刊)四に、「越中のあまのや三郎右衛門に 花にこしはふかしき
がんもありそ海」 長頭丸の一句が見える。この「あまのや三郎右衛門」はまず間違いなく服部三郎左衛
門正知であることが日野龍夫先生の本にも書いてある。
初代が名乗ったのが「三郎右衛門」が正しいが、二代目正知は「三郎左衛門」を名乗ったもの思われる。
正知は、その後天野屋の家督の名前を「天野屋伝兵衛」に改め使用する。
天野屋(服部家)の先祖
服部家の先祖は、伊賀服部郷(三重県伊賀市)の服部伊賀守紀宗純です。紀ノ武内宿禰の弟紀ノ
木兔宿禰より出ているので、家紋は木瓜を使うとある(服部嘉十郎先生、広瀬幾多郎著)であるそうだ。
(妙国寺住職は、木瓜は農民など一般的な家紋であり違うと言っておられた)
宗純は南北朝時代、同士五十家の人々と共に、宗良親王を奉じて東国に転戦するも敗れ、参河、尾
張、近江などに分散した。宗純は、尾張津島に(愛知県津島市)に移住した。
織田信長の時代、尾張津島にあった荷之上城を預かった服部家は、出身が近いだけに同じ一族である。
また、当時荒子城主であった前田家とも距離的に近く、信長がまだ尾張を全て統治していない初頭の時
代、家臣となっていった熱田、津島の商人の中にいた商人たち、いわゆる津島七党と呼ばれる、堀田、平
野、服部、真野、河村の中に見られる「服部」は、元をただせば同じ一族となる。
中でも桶狭間の戦いの奇襲作戦の中に、前田利家もいたとされるが、「信長公記」に記されている最後の
いわゆる「今川義元」を追い詰め、最初に切りつけたが義元の刀に膝を切られて、最終的に毛利良勝なる
馬廻りが義元の首を取るという下りがあるが、この馬廻りの一人「服部一忠」なる人物も、同じ一族の出と
なるらしい。この服部は、一忠の母方の姓を名乗ったもので、織田信長とも縁戚に当たるとも書いてあった。
そうなると織田信長とうちの先祖は繋がることにもなる。詳細真実は不明ではあるが興味深いところである。
さて、その後戦乱の時代になり、服部の子孫の名は見当たらなくなったが、元亀天正のころになって服部
宗伍というものあり、その子の祐林(?)(通称弥助)がいて、その子が連及「甚吉」いわゆる天野屋の初代
(三郎右衛門)となるのである。
連及は前田利家に仕えて度々の合戦に従軍し、天正年間に利家が越前府中に在城のころ、召しだ
されて種々の御用商人を承り、利家が色々なとこへ引越しされた時も御用を勤めたとある。
また、文禄年中、加越三州(加賀、能登、越中)を支配するようになり、伏見へ行かれた時も内命を帯びて
仕えたということである。
越中守山城は、山岳城である。麓の守山には家臣のために寺も移設した。当初より日蓮宗、妙国寺も
金沢より移転され守山に建てられたことが記録されている。
慶長10年に利長の時代になって、守山城から富山城に移り、この時に町人になり、天野屋三郎右衛
門を名乗った。 (二代目が天野屋三郎左衛門正知である。)
富山に移った際、菩提寺「妙国寺」も富山に移されたが、現在も残る「富山妙国寺」の檀家からは、当時
を伺い知ることは出来ない。
さらに慶長14年利長が高岡に新城と城下町を開くと高岡に移り定住した。慶長15年に服部連久は他
の二名(横町屋弥三右衛門、越前屋甚右衛門)とともに町宿老(宿老役)に任じられ、元和6年に7名を
加えて町年寄10人の制に改まった後も、高岡由緒町人の三家として新年拝賀に金沢へ登城する家柄で
あった。
高岡に移った際、檀家寺である妙国寺も高岡に移され、このことで富山と高岡に同じ妙国寺が存在する
こととなったと思われる。最初土器町(成美)にあったが、その後、片原町へと移転した。
二代目正知(南郭の祖父)の妻の妙円の養父の伊藤内膳重正は、
の時には、正徳元年に本陣を命じられ幕末に及んでいる。
その間、天野屋は断続ながらも、代々町役人を勤め、高岡の発展に多大な貢献を成しえたといえよう。
天保4年(1833)「服部」姓が苗字ご免となっている。
高岡古城公園の存続に貢献した服部嘉十郎は、13代目の天野屋傳兵衛(嘉十郎)である。
服部伊賀守宗純系図
|
伊勢河内服部党 寛政重修譜1171巻葛原親王後 他 ○吉野十一党七苗字 |
服部半蔵家 寛政重修譜1168巻服部家長後 |
寛政譜ほか |
※ 服部半蔵家とは、系統は違うが同じ服部党、いわゆる尾張、津島を拠点として吉野より供奉してき
た公家庶流の一人で、七苗字と号された吉野11党と呼ばれた一族なのである。
「天野屋」は服部家の分家筋か?
服部家は苗字御免の上いただいた由緒ある姓であるが、当時はむやみやたらに分家することは、許され
なかった。服部の分家に天野屋甚助家というのがあった。「天野」姓は高岡にそれほど多くはない。
また、同じ日蓮宗高岡妙国寺の檀家の中にあって、無関係で天野を名乗ったとは考えられない。
四代正武の弟、第3子が、天野屋甚助を名乗り別家している。天野屋甚助家とまた、槇屋(清水家)
に入った三代正則の兄弟(十子、知久、初名清左衛門)が婿に入ったことで、代々天野屋家督存続の
為、養子縁組を度々繰り返している。
しかし、医学的な見地から見れば親族間での婚姻を度々繰り返したことで、早世したり、健康面で身体の
弱い子が出てきたことも充分考えられる。
12代三郎左衛門元業は江戸期、最後の総町年寄を務めた人間で、嘉十郎の父親である。一方母親
民子は富田家(横町屋八代善五郎、長女)であり、安政7年高岡町役人の中に、服部三郎左衛門の
下で、町年寄並横町屋弥三右衛門とあるのは、民子の兄である。いわゆるどちらも由緒町人の血統を受
継ぐサラブレッドであり、明治維新を迎えたといえども、最初に白羽の矢が当たったのは、幼年期よりなるべく
教育と経験をつんでいたから他ならない。天野屋三郎左衛門が55歳で引退した時、僅か23歳で家督を
継いで、明治維新を迎えたのである。
13代の服部嘉十郎という人は、自身兄弟はなく、二人の子供もどちらも死産だったので、14代目は能
登(親類)より養子をとり、跡を継がせている。現在この服部家に繋がる、直接の嫡出子をもった(血族)子
孫の確認ができてない。
しかし系統的に天野屋の家系に繋がると思われる家系は存在している。
清水家、日下家なども天野屋の血縁を持った家柄である。その中に天野屋も入るのかもしれない。
平成19年7月16日、京都にある日蓮宗妙覚寺に行ってきた。妙覚寺は服部南郭の父、彦左衛門
元矩(もとちか)が京都に移った時に檀家となったお寺である。本能寺の変の時、織田信長の実子が討ち
死にした寺である。もし、ここに織田信長が泊まって討たれたのであれば、歴史は[妙覚寺の変]となってい
た。
しかし残念ながら、明治にはいってから檀家と呼ばれるところは、三つの寺に分散された為、家系につながる
情報は得ることはできなかった。四季もみじがとても美しいお寺で、500円の拝観料は要るが、隠れた京都
の風情を味わうことが出来た。
さて、天野という姓自体今となっては多く存在するが、服部家と同じ宗派、日蓮宗で菩提寺も同じ高岡
の妙国寺にあって、なんの縁もないのに天野を名乗ったことのほうが不思議なくらいである。
わずか100軒程度の檀家寺の中にあるので、服部家の分家筋であるのかもしれない。(確認が取れてない
が)お寺にある過去帳が、高岡の大火で紛失していたり、服部家がどんな家紋を使っていたなど詳しい事を
知る方もいないので、現在確固たる証拠を求め調査中である。
御馬出町にある清水家(屋号 槇屋)は天野屋と深い血縁で結ばれた家系なので、色々聞いたりできた。
その中で清水家並びに日下家(くさかけ)屋号(茶木屋)も古く高岡開町当時から続く古い家柄であるが、
そこの仏壇の中より、各由緒ある家の家系の系譜図が出てきた事で、天野屋はじめ、槇屋家の家系の全
体像が詳しく知ることが出来た。
前田利長は、高岡に町を開くとその運営を町奉行以下、町宿老(町年寄)を先頭とする町役人に委
ね、江戸時代260年に渡り安定した町運営を行ってきた。加賀の百万石を支えてきた背景には、こうした
運営の手法と農政の確立が挙げられる。その中心的役割を果たしてきたのが「天野屋」であったのは間違
いない。
高岡の歴史においても幾たびかの苦難(大火災、度重なる水害、飢饉など)を乗り越え、現在の高岡が
発展できたのも「天野屋」を初めとする町役人の功績は大きい。
もちろん町民との一体とした連携、「町を愛する心」があったからこそ、それらを乗り越え発展できたのである
が。高岡の方は、あまりそのことをご存知ではない。
御本陣について
御馬出町のNTTの建物前に「御本陣跡」の碑がある。江戸幕府が寛永12年(1635)に各藩主に参勤
交代を命じた。これをうけて藩主の江戸表への往還の際の御旅屋として現在の御旅屋に一国一城令によ
って廃城となった高岡城の取り壊し材によって藩主のお泊りになる御旅屋が建てられた。御旅屋町の町名
の所以である。表に御旅屋門、裏に小門をおき、後ろ庭が桜馬場につづき、内外に濠池が設けられてい
た。
この御旅屋は3代利常から5代綱紀の頃まで使われていたが、正徳の頃に老朽化したことで取り壊され
た。その後、町方の大家が御宿に充てられることになり、御馬出町の服部家「屋号 天野屋」が本陣として
用いられたのである。「高岡湯話」によると、8代天野屋傳兵衛服部正躬(まさみ)がでてくる。御本陣の当
主としてお殿様の宿泊の2、30日前から家の煤(すす)を払い、掃除をして家の臭いにまで気を配り、慎ん
で外出を避け、家にいて毎晩、帯も解かずに夜中に家中を回る。やがてお泊りになる3、5日前(ママ)にな
ると、手燭をもって障子の桟を照らして、1つ1つ撫でて塵埃がないか確かめていた。と書かれた。このように
藩主の本陣になる服部家の当主も大変であったということである。
本陣は、また幾度かの高岡の大火にも類焼をみたが、その折にも前田家より松の木を拝領するなど特別の
待遇であった、また本陣を運営することは、経済的にも大変であったと思われ、当初は高岡一の所得もあっ
たとされるが、実際は中々そうではなかったらしく、運営を救うことから米場主附を任され、それ以後持ち直し
たという経緯もある。
そして大きな転換となったのが明治維新であり、たとえ由緒家系であっても、特権があった上でのこと、その
うちだんだんと衰退していったのかもしれない。
明治18年高岡米商会所(後の米穀取引所)が創立され、当初通町一番地にあったものが、この本陣の
あった跡地に新築移転している。それが六角形で二階建てのユニークな建物であったことから、市民には
「六角堂」の名で長く親しまれた場所である。
服部嘉十郎(天野屋傳兵衛)のおかげ
服部嘉十郎は、弘化2年(1845年)8月9日、天野屋の13代目として父三郎左衛門元業、母民
子の長男として御馬出町に生まれ、名は元善。初め嘉十郎を通称とし、後に伝兵衛、また嘉十郎と改め
る。時に父32歳、母23歳の時でした。実は嘉十郎には、姉正子、妹利久子がいたが、いずれも幼少に
亡くなっており、文字通り一人息子であった。
幼いころより四書五経・詩文・絵画などの学問・文芸に秀で、特に「孝経」は全て暗記し、座右の書でし
た。福光の宮永菽園(しゅくえん)に師事し、人柄も温厚な君子人であった。
明治元年(1868年)10月、24歳で家督を相続し、町役人に列する。(安政7年(1860年)の町役人
諸役懸役附列帳に総町年寄に列記されている服部三郎左衛門(47歳)は嘉十郎の父であり、その中に
祠堂銀裁許並、蔵廻りの役職についている天野屋伝兵衛(16歳)こそが嘉十郎である。早い時期から天
野屋伝兵衛家を引き継がせ教育されていたことが伺える。
明治3年、第17大区区長(現在の
られ、明治初年の飢饉には貧民救済に奔走し、一人の餓死者も出すことはなかった。
(これも決してその時しのぎの政策ではなく、江戸時代の天宝の飢饉はじめ数々の苦難、大火災、千保川
の氾濫、洪水など多くの天災を町挙げて乗り越えてきた経験と、ただひたすら高岡の発展と幸せを願ってき
たことが伺える。)
また高岡初の公立学校「高岡学館」の督学(とくがく)となり、同9年(1876年)当時北陸随一と称され
た高岡育英小学校を新築落成するなど高岡の教育においても多大な貢献をしている。明治維新の激変
の中にあってそれまで藩政の中で多くの特権を与えられていた由緒町人は一気にその力は、無くなった訳で
ありますが、そんな激変の中においても何が大切で、何をしなければならないかを冷静に判断した嘉十郎の
行動は、260年もの長きに渡って家督を相続し、高岡をただひたすら愛した家柄だからこそできた証だとも
いえる。
しかしこの間、嘉十郎の家庭は不幸続きであった。27歳の時、妻文子を20歳で亡くした。妻文子は尼
崎藩大参事、服部氏初代元彰の次女で、嘉永4年生まれ、これも男子2人生んだが、いずれも死産であ
った。その後、後妻は五十嵐篤好の娘方(五十嵐政雄の妹)「かた」と再婚するが、若くして寡婦となり子
供もなかったので、五十嵐家へ戻っている。
さらに以前より病弱な両親の看病に尽くしていましたが、父は明治3年より盲目となり、のち寝たきりにな
った。嘉十郎は父が亡くなるまでの11年間、日夜看護につとめ、その間看護に専念するため幾たびも依願
退職と、復職を繰り返している。
そのうち31歳の頃より嘉十郎自らも肺結核にかかり、父の死後2ヶ月後の同13年(1880年)3月27
日、あとを追うように逝去した。
v享年は、わずか34歳であった。服部家、並びに嘉十郎のお墓は、片原町妙国寺にある。(但し移設され
たもの) 号 孝徳院道元日務居士。
*高岡古城公園の創設
嘉十郎の業績として見逃せないのは、高岡古城公園の創設にある。
明治3年、旧藩時代の権威を象徴するかのような各地の城は、次々と撤去されていく中、高岡城の跡も
樹木を伐採し、開墾地として民間に払い下げる通達を出した。
同5年、その旨を受けて七尾県は、払い下げを断行、その結果地所は4,250円で藤井能三に、樹木は
1,000円で内嶋六平に落札されてた。
高岡城跡は、昔から町民が「古御城」と呼んで町の誇りにしていただけに、町民は驚愕した。
しかし実際には開墾は行わなかった。払い下げを見合わせる通達が出された。それは高岡区長(現在の
市長)の服部嘉十郎は、国が西洋諸国に見習い「公園条例」を制定したことを知り、翌年の射水神社の
遷座決定も追い風になったのである。
城跡を公園として残し、町の人たちの共有物としようと考え、関係者の鳥山敬二郎(天保13年~大正1
5年、後の衆議院議員、
利を放棄してもらうよう奔走し、公園指定の請願書を提出したことによるのである。
明治6年公園条例が公布され、そして2年後の明治8年(1875年)7月4日、高岡城跡は正式に公園
に指定された。
このようにして、高岡古城公園は開祖前田利長以来の由緒と市民の誇りとして、今もなお息づいている。
昭和30年(1955年)公園創設80周年記念にあたり、古城公園中ノ島に「服部嘉十郎先生頌徳碑
(しょうとくひ)が建立され、毎年4月に顕彰祭が頌徳碑前で行われ、その遺徳が偲ばれている。(現在は中
断されているが?)
◆ひゃくだいようぶんしょう
[3167]
〈服部氏〉百題用文章 【作者】服部嘉十郎作。【年代】明治八年(一八七五)刊。[京都]田中治兵衛ほか板。【分
類】消息科。【概要】異称『〈服部嘉十郎著〉百題用文章』。
半紙本二巻二冊。上巻に「年肇状(ねんとうじょう)」以下四七通、下巻に「納涼ニ誘フ文」以下五四通、合計一〇一通
(一〇〇題に「某塾ノ生徒ニ贈ル文」の一通を追加)を収した用文章。上巻には主に四季贈答の手紙や吉凶事に伴う
手紙を、下巻には諸用件中心の手紙(依頼状・誘引状など)を載せる。本文を大字・五行・付訓で記し、漢語の多くに
左訓を施す。〔小泉〕 (下巻が国会中央図書館に所蔵されている。内容がデジタル化されていて見ることが出来る。)
十七條憲題教義略説 【作者】服部嘉十郎。 この本に関しては、現在私が所有している。 古本で見つけたの
だが、歴史的
価値があると思われる。 服部嘉十郎は、教育の大切さを認識して高岡学館を創設するなどした原点を、この本から感じ
る。
服部南郭(はっとりなんかく)の生い立ち
ちなみに服部南郭、(天和3年(1683年)9月24日~宝暦9年(1759年)6月21日)は二代目三郎左
衛門正知の孫である。
正知の六男に当たる南郭の父の彦左衛門元矩(もとちか)、母は蒔絵師の山本春正の娘、吟子(ぎんこ)
の次男として出生している。
長男、彦左衛門元恵、二男小右衛門元喬の二子を設けたが、これが服部南郭である。
延宝4年(1676年)京都に移住した父、元矩(もとちか)、が移住後、母と京都で知り合い、結婚して生
まれたというほうが筋がとおる。(正徳元年の南郭が、自ら認めた「親類書」に、自分の名の上に、「本国越
中、生国山城」とある。これによると、家は越中高岡の出であるが、自分の生まれは山城(京都中京区車
屋町)であると書いている。(京都生まれは間違いないようであるが、父の元矩(もとちか)は、29歳まで高
岡に住んでいたようである。また高岡詩話を執筆した津島北渓によると南郭が幼少の時父母に連れ立って
京都に行ったというのである
が、これは父親の正知が南郭の父親、元矩を連れ立って京都に延宝4年に移住したことを勘違いしたこと
から書かれた可能性が高く、移住後、山本春正の娘、吟子(ぎんこ)と知り合い、結婚して生まれたのであ
れば、南郭が高岡で生まれた可能性は低いのである。)(むしろ一度も高岡に来たことがないのでは?)
父「元矩」の実家の高岡の天野屋は、北陸から京都へ移入物資を扱う問屋であり、京都へ移住した天野
屋の人々もそれらを扱う問屋的な営みをしていたと考えられ、高岡との行き来もあったと考えられる。現に元
矩の兄の方盛は京都の車屋町に「越中屋半六」として八講布を扱う絹問屋を構えていた。元矩も高岡詩
話によれば、「間散餘録」に北国屋という名で、店を構えていようである。
八講布といえば、当時越中は全国有数の布の産地で、高岡開町間もない寛永12年(1635年)に藩で
は、高岡に布御印押人を設置し、越中産の布をすべて高岡で検印を受けさせることで、高岡商人を保護
した。このことから、服部家が、布御印押人として問屋的な地位にあったものと思われる。
(天野屋が布御印押人をしていたという記録はないが、色々越中の産物を取扱う立場にいても不思議で
はない。)
宝永年間には、12万疋(ひつ)(80尺、2反)の取扱いがあったといわれ、これらの布が、京都に向けて運
ばれていたものと思われ、また元矩の長男の元恵が一時大津に住んでおり、これも北陸から上方への向う
物資の集散地であったこととかかわっていると思われる。
服部南郭について
服部南郭は、荻生徂徠の高弟として知られ、江戸時代中期の日本を代表する儒者、漢詩人、画家で
あったと伝えている。
幼名は勘助、名は元喬(げんきょう)、通称は幸八(こうはち)、のちに小右衛門(しょうえもん)、字を子遷
(しせん)、号は芙蓉館(ふようかん)、画号に周雪(しゅうせつ)、観翁(かんおう)など、中国風に服南郭、
服元喬、服子遷と名乗ることもあった。
風流絵画の人で和歌絵画をよくし、詩文の名声高く、文芸の士の欽慕を集めた。徂徠古文辞学の詩
文の面の代表者。
盛唐詩を広め、「唐詩選」を校訂刊行して大流行させた。 他の著書に『大東世語』『灯下書』『儀礼図
抄』『十八史略』等。
江村北海は「日本詩史」において「蓋徂徠没して後、物門の学、分かれて二と偽る。経義は春台を推し、
詩文は南郭を推す」。とされるように徂徠亡き後二つの流門へと分かれていったのであった。
「園門下いかに多氏済々とはいえ、治国平天下の学より故事来歴の考証までを一身に兼ねる人物はもはや求めるべくも
ない。かくて徂徠学の分裂はまず人格的な分裂として表面化したのである。徂徠学の公的な側面と私的な側面は■園門
下において夫々異なった担い手を見出すことになった。前者を代表するものに太宰春台・山県周南があり、之に対して服
部南郭・安藤東野・平野金華らはいずれも私的側面の継承者であった。
後世、角田九華が、「徂徠没するに及び、その門分れて二と為る。詩文は服部南郭を推し、経術は春台を推す」(近
世叢語、巻二)と語っているのはこの間の事情を指すものにほかならぬ。(中略)けだし彼等は夫々 - エピゴ-ネンにふさ
わしく - 意識的にか無意識的にか己れの継授した面を徂徠学それ自体として絶対化することによって、各自の領域を
無視し同じ面において競合するに至るからである。
この食い違いは既に春台と南郭において明白に現れている。一方において春台が古文辞の弄びを「糞雑衣」と罵り、「聖
人ノ道ハ、天下国家ヲ治ルヨリ外ニハ所用ナシ、・・・是捨テ学バズシテ、徒ニ詩文著述ヲ事トシテ一生を過ス者ハ真ノ学
者ニ非ズ、琴碁書画等ノ曲芸ノ輩ニ異ナルコトナシ」(経済録、巻一)と痛論しているとき、他方に於いて南郭は、近世叢
語に、「其学博しといえども深く自ら韜晦し未だかつて師儒の重きを挟まず、居恒、雅致を以て自ら居る。人或いは時事を
問へば笑って曰く、文士迂闊にして事務を知らざるに■々として空談自ら喜ぶ、何ぞ■人道を謀るに異ならん、故に予は敢
てせず、と」(同、巻三」)とある様に政治的現実から韜晦して、ひたすら詩文を楽み、文辞の研究に没頭していたのであ
る。
しかも春台や周南のごとく経学を継承しこれを深化して行った者は比較的少数であって、■園の大勢は南郭の傾向を追っ
て行った。
古文辞学や詩文にしてもいまだ南郭においては溌剌たる創造性を失わず、「後世文辞を語れば必ず先づ南郭を称す」
(近世叢語、巻三)
といわれるまでの域に達していたが、更に後のエピゴ-ネンに至っては、本来、徂徠学の単なる階程にすぎなかった李■鱗・
王元美の文辞を盲目的に模倣するにとどまり、学問的にも芸術的にも低調の一途を辿った。
(参考文献 『丸山真男集』第一巻 260-261頁 近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連)」)
父の元矩(もとちか)は
育ち、歌や絵の手ほどき以外にも「四書」や「三体詩」などを教えられる。
13歳のとき、父を亡くすと縁故を頼り江戸に下る。
17歳の頃、甲府藩主 柳沢侯に歌と画業を認められ、これより18年間仕えることとなる。
柳沢家には多くの優れた学者(細井広沢、志村禎幹、荻生徂徠、鞍岡蘇山、渡辺幹など)が仕えていた
が、このうち荻生徂徠を慕い、やがて漢学に転向する。柳沢吉保が死去して4年後の享保3年(1718年)
、跡を継いだ柳沢吉里に疎んぜられ職を退く。
南郭は不忍池の畔に居を構え、塾を開くが、ここを芙蓉館と呼んだ。徂徠の学派の双璧とされた南郭の
門には多数の門人が列をなし大変盛んだった。
南郭は温順な性格であり、十数年来の友 高野蘭亭は南郭が人と争うことを見たことがなく、人の悪口を
言ったことがなく、さらには怒ったり、喜んだりしたことさえ見たことがないと伝えている。
養子の元雄(服部白貴)は、南郭が家族に対しても自らの履歴を隠し誕生日さえ伝えてこなかったと墓
誌銘に寄せている。
宝暦9年(1759年)享年77歳で死去。東海寺(東京都品川区)に墓がある。
南郭別邸あと
150年の間江戸にあって「塾ヲ設ケズ」の家訓に従って本多(伊勢神戸)、伊達(宇和島)をはじめとする諸候への出講を
主として儒学・漢詩文の教授に従事して来た。(二代元雄、三代元立、四代元雅、五代元済、六代元続)。七代元彰
は明治維新による廃藩後は内務省に出仕、地理局第三部編纂課長となり、八代元彦は東京大学古典講習科に学び、
国語・国文学者として活躍した。しかし南郭の直系である子として二子あったが、長男
惟良は夭折し、次男 惟恭、詩名
ありしも、また早世す。よって門人
西村元雄を季女(登免子)「後、豊子と改める。晩年更に岩田と改む。
享保11年生。寛政13年正月8日没。年75歳。品川万松山東海寺に葬る。法号、清雲院梅峰妙香大姉。に配して
家を継がしむ。とあり直系の子孫は途絶えていたと思っていたが、更に新たに調べを進めていくと南郭には長女 亀子(後、
元子と改む。後、妙念と号す。正徳5年生。相模舞岡豪農相沢藤左衛門に嫁す。寛政10年12月24日没。
年84歳。相模舞岡円福寺に葬る。法号 志心院誠誉妙念大姉)の子「直子」(実父、相模国舞岡 相沢藤左衛門、
南郭翁の外孫)が三代「元立」の妻として入っており、血縁がある事が判明した。これには大変うれしかっ
た。(更に、日野龍夫先生書の服部南郭伝攷には詳しい家系が乗っているので参照していきたい)
服部商山(はっとりしょうざん) 明和5年(1768年)~天保3年(1832年) 名は元雅、字は量卿、小右
衛門と称した。
萩生徂徠の高弟服部南郭の子孫で、江戸赤羽森元町に住み、詩人として知られた。尼崎藩主松平忠
告に召し抱えられ、江戸藩邸内の学校止善舎で藩士の教育にあたった。
小山の後その子元彰も同じく尼崎藩に仕官し、儒官として、また幼君松平忠興の補佐役として藩政に重
きをなした
1857年(安政4)当時洋式砲術を教え全国にその名の高かった江川英龍の塾で兵書を講じていた大鳥
圭介を藩主に推挙し、5人扶持で尼崎藩に召し抱えさせたのは、服部元彰であった。
服部家の菩提寺「日蓮宗 妙国寺」
服部南郭の父服部元矩(もとちか)と母の吟子の結婚は延宝末年頃と考えられるが、吟子の父の「山
本春正」という人は、蒔絵師ならびに歌人としても世に聞こえる人物で、水戸家御用の歌学者として歌名
の高い人であった。
このため春正は、公家の歌会にもしばしば出席し、また水戸光圀の知遇をえて、江戸歌壇の指導的地位
にたつこともある名士であった。
※山本春正(初代) やまもと-しゅんしょう
慶長15年1月25日生まれ。京都の人。木下長嘯子(ちょうしょうし)に和歌をまなび,「挙白集」「古今類句」な
どを編集。また蒔絵の技にすぐれ,法橋(ほっきょう)となった。蒔絵師山本家の祖。天和(てんな)2年9月8日死去。73歳。通称は次郎三郎。号は舟木。著作に「舟木集」など。
この両家の婚姻には両家の旦那寺が共通していたことが、その縁であろうとされている。高岡の服部家の
菩提寺は、片原町にある妙国寺であり、服部家の9男「日顓」(にっせん?)が妙国寺の第5世に治まって
いる。
この妙国寺の本山となるのが、京都の鞍馬口にある妙覚寺である。京都に移住した服部家の人たちは、そ
のことで妙覚寺の檀家となり、同じ檀家同士ということで、二人を結ぶ縁となったのである。
元矩(もとちか)の兄の方盛(知貞)も京都の
う絹問屋であった。
この方盛、元矩が共に和歌の心得があり、元矩の妻の吟子の父、山本春正の歌会に、方盛(知貞)、元
矩(知貞)の名で幾度も和歌を詠んでいる。これには山本春正の次男の道春が伊藤仁斎に学んで徳山
毛利家に仕える儒学者で、父春正をめぐる人々の詩歌、和歌、などを編年体に収録した「文翰(かん)雑
編」全20冊に著述し、今も宮内庁書陵部に所蔵されている。
こうした文芸好みは、祖父の正知にもあり、一生の大半を高岡の町年寄として過ごした正知が、連歌をこ
のみ、家督を次男の正則に譲り、還暦を過ぎて京都に移住し、方盛、元矩に混じって京都の文雅の仲間
入りするのである。
南郭はこうして文雅の血筋を受けるのである。
13歳で父を亡くした南郭は、その翌年に14歳で、歌と絵でもって身をたてるべく江戸にでる。
その後、17、8歳で、柳沢吉保に見出されて使えることとなるのであった。吉保といえば、将軍綱吉のお
側用人から幕府老中をつとめ権勢をほしいままにしていた。その将軍綱吉から気に入られて家運隆盛に向
っていた柳沢吉保が、将軍の好学の期待に応える意味もあって学芸の学輩を盛んに召抱えて将軍の期待
に報いるべく取り組んでいたので、南郭も17、8歳の若さで、召抱えられることとなったのである。
南郭が柳沢家の歌会の記録に名を連ねるようになったのは、元禄15年正月が初見だとされている。
南郭はその柳沢吉保の元で、歌人として柳沢家の歌会などで、元孝の名で活躍し、多くの歌を残してい
る。
その時に同じくつかえていた荻生徂徠と知り合い、柳沢吉保が亡くなった後、柳沢家を退き、荻生徂徠の
門で、漢詩人として一門を代表する人物として数々の著述に塾を代表して名を連ねることとなるのである。
その活躍ぶりは伊藤仁斎、本居宣長に次ぐくらいであるといわれてる。 (参考文献 篠島 満氏 講演内
容PDFより)
山本春正(1610~)(やまもとしゅんしょう)
山本春正は、江戸時代から代々京都の蒔絵師として大活躍をした偉大な塗師です。寛政年間に、5
代春正生令の時代に尾張へ移り住んで、後に春正蒔絵と呼ばれる手法を確立し、現在も尾張(名古屋)
を中心にその秀作が残っている。文才のある人は芸才もあるのですね。
服部家は天野屋のルーツか?
服部家の菩提寺は、片原町にある妙国寺にあります。この寺の山門をくぐり抜けるとすぐ左手に服部家
の墓標が並ぶお墓があり、先祖代々の霊と共に服部嘉十郎(13代天野屋伝兵衛)も静かに眠っている。
これも数年前、妙国寺の墓地改装に伴い移設したものなのだが、実際墓を掘り起こしても何も出てこなか
ったとも聞いている。妙国寺の土に返ったものと思われる。
天野屋の菩提寺もこの妙国寺にあり、住職いわく天野屋は服部家の屋号を受け継いだ由緒ある家筋で
あるとか。(まだ、実際のところは確認が取れてないが) また天野屋の本家の多くは一番新町に住んでお
り、家紋は、一族すべて「角(菱)にかたばみ」を使っている。
今「服部家」がどんな家紋を使っていたかということも確認が取れておらず、妙国寺自体過去の高岡の
大火によって過去帳も焼けて紛失しており残っていない。(服部家の墓は家紋すら入っていない意外と小さ
な墓である、そして以外に新しかった)ここでもし天野屋の屋号が服部家より出たものとして証明されれば、
自分自身が数少ない「天野屋伝兵衛」直系のDNAをもつことになるのだ。
服部家の直系の子孫は、現在確認が取れていない、子孫が途絶えた可能性が大きいのだが、同じ菩提
寺を持つところから自分ところが分家筋である可能性が大きいのではないか。
確かに天野家は武士の出という言い伝えからもまた、天野屋の屋号を使ってきたこと、そして菩提寺が日
蓮宗妙国寺というところからも、服部家とも「つながり」があったとしてもなんら不思議もない。
歴史を調べていくと今の常識では考えられない事実も沢山あることもわかってきた。その一つが家督ということ
である。
家督を相続できるのは、原則長男に限られており、女性は認められなかった。
長男がいなかったり、もし都合があったりしたときには分家より後継者を出した。天野屋は260年にわたっ
てこの家督を継承してきた。
これは、大変なことであったと思われると同時に、分家だからといって財産や、身分や職業が保証されたわ
けでもなかった。
服部家の分家としての「天野屋」。「服部」の姓は、天保4年(1833年)に苗字御免となった。一般町人
が苗字を許されるということは、大変名誉であるのだが、だからといって分家にあたる人たちすべて「服部」の
姓を名のれた訳ではなく、「天野屋」の屋号を受け継いだ分家であることは間違いなく、服部家の一族であ
ることには変わりはない。
その思い当たる方もいた。一人は分家の「天野屋甚助」で、もう一人が二男「天野屋外与次」である。
実際、家系を図書館などの古い資料で調べることが出来た。そこでもしやと思われる事項がわかり可能
性が一段とUPした。
それはどういうことかというと、服部嘉十郎の父元業(天野屋三郎左衛門)には、実は二人の弟がいたので
ある。
一人(二男)は服部有年、通称、天野屋外与次。
もう一人(三男)が清水梅顚(てん)、通称槇(まき)屋藤右衛門(清水薬局10代目)。共に宏才があ
り、詩書を能くしたそうである。
この、二男「天野屋外与次」が天野屋の屋号を受け継ぎ、もし天野性を名乗ったとしたら、天野家のルー
ツと繋がるのですが?
(実際のところまだ、確認が取れていない。)それ以外にも、町役人として出てくる「天野屋甚助」(散町肝
煎列、御用取次)服部嘉十郎より4歳年下である。
そのほか 「天野屋新左衛門」(町算用聞)などがいたが、「天野屋」の分家筋として考えられる人たちであ
るが?
これもどこに繋がるのかよく判っていない。妙国寺に服部家の墓石郡の中に「服部甚助家先祖代々」の墓
が見られ、これが意外と新しく、大正年間に建てられたものとわかった。
服部家の直系子孫(摘出子を持った子孫)は途絶えてしまったのか?
「服部嘉十郎」自身には、姉と妹がいたが、幼少時になくなっており、実質一人っ子として育てられてい
る。また嘉十郎自身にも二人の息子が実はいたが、二人とも死産であったそうだ。奥さんはその関係で、
若くして亡くなられたのか。当時の医学では、出産に対してのリスクは、大きかったと思われる
のちに後妻をもらっていたが子供がなかったので、実家に帰っている。この方が五十嵐家の「かた」である。
服部家の14代目は能登より婿養子を迎え、ここでの直系DNAをもつものは、途絶えたことになる。
三男の槇屋籐右衛門というのは、清水薬局の屋号でありますがここの10代として収まった清水梅顚(て
ん)にも2人の息子はいたが、この家系の直系DNAは13代で途絶えている。
天野屋伝兵衛は、二代目の三郎左衛門正知の七男が槇屋(清水家)籐右衛門となり清水家へ養子に
出向いているのを皮切りに、何代にもわたって養子縁組を繰り返している。
このことから判るように200年家督を相続していくということがいかに大変だったかということが判るのだが、あ
えて同属での血族結婚を繰り返しているうちどうなっていくかということは、医学に特別な知識がなくてもわか
ってくる。
今、大変気になっていることがこの二男の「服部有年、通称、天野屋外与次」の家系がどうなったかという
ことである。
もしこれが天野家の先祖だとしたらこの
か?
私は、多くのDNAが存在すると信じている。あのアドレナリンを発明した「高峰譲吉の実家も近くにあった
し、高峰家も元は日蓮宗、大法寺の門徒であり、「天野屋」の先祖と同じDNAが存在する可能性もない
ともいえないのである。
また、あの「忠臣蔵」に出てくる、天野屋利兵衛もこの天野屋から名前が出ているのではないかと、勝手な
推測もしている。
服部修徳について
服部修徳は医者で儒学を修め、鶴吉とも称し、号は鶴翁・笑鵬亭・治鮒堂。書を講ずるに机上常に本
なく其一字を誤ることなし、と評され、詩もよくした。
四十歳で夜盲になるが、火事の際に近親の目が不自由な人に背負われ、後庭の小川を渡って避難した
ことが、当時の高岡で話題になった。明治十年九月十一日に五十五歳で没。
「高岡學舘」について」
明治元年(1868)12月高岡町奉行 土肥隼之助・井上七左衛門は、高岡町民の子弟を教育せん
爲、
一の學舎を町奉行の邸内に設け、之れを高岡學舘と稱し、又立教舘と名づけたり。
「佐渡氏旧記」より
御奉行所より被仰渡之趣ニ付及示談度儀有之候間明十三日晝八ツ時不遅服部傳兵衛宅迄
参出被成度候
(大 橋) 與 三 市
(服 部) 傳 兵 衛 (
(富 田) 本 次 郎
津島玄碩老(74) 上子元城老 (63)
佐渡養順老(49) 長崎言定老 (43)
服部修徳老(45) 絹屋權九郎老(58)
※後に以上6名講師となる
「高岡学館」の督学(とくがく)について
督学五名:大橋七右衛門、岡本清八郎、大橋与三市、服部伝兵衛、富田本(元)次郎
講師六名:津島玄碩(七十四歳)、上子元城(六十三歳、医者で漢詩人)、佐渡養順(四十九歳)、
長崎言定(四十九歳)、服部修徳(四十五歳、医者で荀子に精しい)、絹屋権九郎(五十八歳)
典籍兼度支三名:石川次郎右衛門、石瀬屋与七郎、三木屋半左衛門
句読師六名
典礼二名:室屋小右衛門、三辺屋宋四郎
書記三名:米屋豊蔵、竹村屋義太郎、関屋平左衛門
高岡の町々のおこり
260年の間に高岡はどれほど発展したかを推察するのに「戸口」の増殖を調べればある程度はわかると
思うが、慶長14年(1609年)9月、前田利長が高岡に入城した時、追随した士臣は434人、その他従・
足軽などが130人余で、仮にこれらすべてが1戸を構えたとしても560~570戸、これをめあてに来住した
町人は630余戸、武家町人合わせても1200戸ばかりで、人口にしても当時の記録はないがせいぜい5
000人前後ではないか。
ところが同19年(1614年)5月、利長が逝去して、家臣はことごとく金沢に引き揚げ、町人もばらばら四散
し始めたのを、元和6年(1620年)10月、利常が足止を命じたのであったが、その時の戸口がどれほどあっ
たものか記録がないのでわからないが、おそらく3000人そこそこと見て大きな誤りはない。
その後60年間、かって戸口調はおこなったことはなかったようだが、延宝9年(1681年)3月、御算用場
から命令があったので、翌天和2年(1682年)5月、3020軒と報告したが、これは正確な調査に基づくも
のではなかった。
創町期には草分けの町人に無償支給された無税の「本町(役町とも)」が築かれ、江戸中期には町人が
藩より借り受けた「地子町」がひろまり、やがて隣接村地を借り受けた請け地に造られた「散り町」も加わる
と、開町当初の戸数と人口は、武家・町人合わせて1,200戸5,000人前後と考えられるが、元禄12年
(1699)には2,628戸13,085人、文久3年(1863)は4,698戸20,000人以上であったと考えられている。
(参考文献
また町の数には諸説があり、時代により増えていったが、『高府安政録』(1859年、川上三六著)によると
一番町・守山町・木舟町などの「本町」は29ヶ町、一番新町・片原横町・大工町などの「地子町」は19
ヶ町、母衣町・縄手下町・宮
高峰譲吉博士について
高峰譲吉は、1854(安政元)年11月3日(陽暦)加賀藩の典医の長男として生まれ、住所は富山県
とありますが、実際の生まれたところは、当時は加賀藩領越中国射水郡高岡町横田村甲島、産科で言う
と
譲吉は藩校や長崎留学、フルベッキの英語学校、大阪医学校(現大阪大学医学部)、工部省工学
寮(現東京大学工学部)等で学問を修め、まだ日本人が海外に渡ることが稀有な時代に、1880(明治
13)年から3年間工部省派遣によりイギリスに留学し、研鑽を積んだ。その後、農商務省に勤務し、ルイジ
アナ州ニューオーリンズで開催された万国博覧会の事務官を命ぜられて1880年に渡米、そこで知り合った
キャロライン・ヒッチと結婚した。
この当時、既に人造肥料やウィスキー製造の高峰式醸造法を発明しており、1890年に醸造の特許を
買われて再度渡米し、以後アメリカに永住することになる。
その後、消化酵素タガジアスターゼを開発したり、外科手術における患者の生存率を飛躍的に高めた
牛の副腎からのアドレナリンの純粋結晶単離の成功などのノーベル賞級の業績を挙げ、科学者として、そし
て実業家として世界的な名声と巨万の富をアメリカで得たのであった。高峰譲吉博士はいわゆる【アメリカ
ン・ドリ-ム】を実現させた人である。
そしてアメリカの在留邦人の地位向上に尽力し、祖国・日本の発展のために心を砕き、日本人研究者の
育成に力を注ぎ、これらの科学的・医学的な業績に勝るとも劣らない文化的な遺産を遺したことである。
御馬出町の高峰公園(住居跡)にある「高峰博士顕彰碑」の撰文には湯川秀樹博士は『郷土に生き、こ
こに来る人々に感銘を与えるでありましょう』 と書かれている。
1985年特許庁は『日本の十大発明家』の一人としているが・・・・・「宇宙銀河太陽系の生物である地球
上の人類」日本人として郷土の誇りと言うよりも、個人的にはむしろ日本そして世界の誇りであると言うべき
とも思っている。
そもそもタカヂアスタ-ゼの発明は【麹(こうじ)菌の研究】から生まれたが、それも博士の【清酒醸造法研
究】に端を発する。
博士は清酒の他にも、和紙や藍(あい)など日本固有のものの研究に力を注いだ。
本年、高峰譲吉を主人公にした映画「さくら、さくら」が公開になり、多くの方に高峰博士のことを知っていた
だく機会が出来ました。私もまだ見ていませんが、楽しみにしております。
「由緒町人」
由緒町人とは町人中の門閥にして即ち祖先以来名誉ある歴史を有する家柄をいふ。寛文元年(1661)
7月加賀藩主5世前田綱紀入国に際し封内町民の由緒を調査せし時、高岡の町よりも諸役人等の由
緒を提出せしが其の中「天野屋伝兵衛」「横町屋弥三右衛門」「越前屋甚右衛門」三人を是認し、自
今此の三人には藩より優遇を与ふるに至れり、これを高岡由緒町人の始となす (高岡史料より)
由緒町人が藩主に謁見するの栄を有するに由り一に之を御目見町人と称し、又祖先以来藩主の恩顧
を受け来りしに由り御譜代町人の称あり (高岡史料より)
明和安永の頃に於いて由緒町人の特待を受け得し者は天野屋伝兵衛一人のみなりしなり。然れども
横町屋弥三右衛門、越前屋甚右衛門が此の時特待中止は暫時の間なりしならん、天明5年正月新年
拝賀として登城せし人物を見るに槇屋藤右衛門、天野屋伝兵衛、横町屋弥三右衛門の三人なり、
而も町奉行上申書には伝兵衛、弥三右衛門の両人には由緒町人の資格を以って参賀せし旨を明記せ
り (高岡史料より)
役職ではないけれども、町政上に重要な意義を有するものに、「由緒町人」の制があった。
由緒町人とは、由緒ある町人ということで、節目正しく、名誉ある家柄として、藩から公認され、特別の待
遇を与えられていた町人を指すのである。
町人中最高の特権階級で、もちろん真先に町年寄に選ばれ、常に諸役人や町民の指導者をもって任
じた。
寛文元年(1661年)7月、5代藩主前田綱紀がはじめて入部するに当たって、領民の由緒調べを命じた
時、高岡町からも諸役人の由緒書を提出したが、その内天野屋伝兵衛、横町屋弥三右衛門、越前屋
甚右衛門の三人が認められ、年賀の拝賀、藩主の送迎、御機嫌伺いなどが許された。これが由緒町人
の起源である。
この三人は共に武家の出身で、利常以来の殊遇を受けた家柄で、綱紀が再認識し、従来区々であっ
た礼銭も鳥目三十疋(享保の頃より銀子四匁八部)と一定して、明確に制度化した。由緒町人は、藩主
に謁見(えっけん)を許されるという破格の光栄に浴したから、「御目見町人」ともいい、また祖先以来藩公
の恩顧を受けてきたということで、「御譜代町人」とも称した。
越前屋の由緒帳は見当たらないが、天野屋と同様、御馬出町に屋敷を拝領し、由緒町人に列せられた
ものであるが、四代目甚右衛門は商売に失敗し、その上病身なため、寛文8年(1668年)より年賀、御機
嫌伺いに出ることが出来なかった。
男の子がなかったので、一人娘に婿をとって後を継がせたが、これも早世し、彼が死んだ時孫はわずか三歳
で、親戚に引き取られるという始末で、全く「身上無力」になってしまった。
町会所によると、越前屋は延宝3年(1675年)以後礼遇を停止されている。
延亭4年(1747年)八代藩主「重熙(しげき)」入国の際、町奉行から伺いを立てたが、なお許されず、文
政7年(1824年)に至っ始めて復活した。
なお、高岡町図之弁は、明和(1764年~)・安政(1722年~)の頃、由緒町人の待遇を受けたもの
は、「天野屋伝兵衛」一人だと書いている。
横町屋も一時中断したのである。これは延亭3年(1746年)家督を継いだ八代目弥三右衛門が、勝
手不如意の上に弱年であったためで、天明3年(1783年)町年寄りとなり、同4年御目見を仰せつけられ、
5年正月には、天野屋伝兵衛、槇屋籐右衛門と共に拝賀に出ているから、その間30余年の中断で、そ
の後は明治維新まで続いている。
文政7年(1824年)越前屋甚右衛門が復活したとき、新たに二上屋吉助・菱屋七兵衛の二人が由緒町
人となり、合わせて5人となった。
高岡のある郷土史家は、「由緒町人は藩政時代、高岡町を牛耳っていた黒幕だ」といった。
私はこれを浅はかだと憤慨している。由緒町人がいたからこそ高岡の町人の思いを代弁し、藩政時代を
乗り越えてこられたのではないだろうか。